生物の形態の不思議

自然界のある生物の形態には、人間の目から見ればきわめて奇妙に見えるが、実はまことに合理的、合目的に出来上がっているものだと感心するものが多くある。

たとえば昆虫にしばしば見られる「擬態」である。枯葉虫(かれはむし)は本当に枯葉に似ていて一見、どこに虫の本体があるのか区別がつきにくいほどに色も形もうまくできている。

自分自身の体を周辺の環境に紛らわせて敵の目を欺くこと、あるいは周辺のエサに気付かれないで、至近距離に来たエサを捕獲するというさまは実によくできている「擬態」である。

この「擬態」なるものはなぜ虫がこのような形に生まれてくるのであるかはなはだ不思議である。

もし人間がこれを演じるとなればどうであろうか。たとえば軍隊の着ている迷彩服であろう。ジャングルの中での戦闘では木の葉のような模様をつけた軍服を着るし、砂漠では茶色の服、雪国では白一色の服を着ている。これで敵から存在をかくし、奇襲攻撃ができるというものである。

また有名人が市中を歩くときは、自分の存在がわからないように帽子を深めにかぶり、サングラスをして、大きなマスクをする。そしてマフラーまでもするが、すぐにマスコミのカメラマンにキャッチされてバレてしまう。

古典的ながら泥棒がほっかむりをしたり、刑事がレインコートを着てハンチングハットをかぶるのも型に入った擬態の一種であろうか。

これら人間の擬態は衣服だけを変えている変装である。それでも人間たちは自らの変装具合をを鏡に写して、客観的にチェックしてちょっと襟の位置をずらしてみたり、帽子をかぶりなおしてみたりして入念な微調整をするものである。そうしなければ、他人から見てはバレバレの代物になっているのが多いものである。

さて、虫たちはどうであろう。枯枝虫(かれえだむし)はまったく隣の枯れた枝と同じ色、形をしているし、「木の葉虫」は重なり合った本物の木の葉と同じように色も形も、そして葉脈のような形までも細かな点まで気を配って似かよって作品ができている。いくら近寄ってもそこに生きている虫がいるとは気が付かない。

このような形態の変化を人間は(あるいは観察者は)外敵に捕食されないための避難の形態であると説明する。そして多くの人はああそうだなあと納得する。

しかし虫たちは自分を鏡に写しだして、これで良しと擬態を作り上げているのではないであろう。こんな形ならば外敵に発見されないと考えて作品として作り上げたものではないだろう。

また、だれか近在の同僚の虫に見てもらって「これでいけるかな」などと意見を聞いたわけでもあるまい。そもそも虫にはそんな考える能力などどこにあるのか。単なる過去の経験則に則り、いろいろなものに形を試してみたのだろうか。

さすれば長い歴史の間に擬態のコンテストを繰り返していろいろ試しているうちに一番最後まで生き残った擬態最優秀者が敵の目を欺き、現存している虫なのであろうか。

せっかく擬態を作っても真っ赤な葉っぱだったり、葉脈がまだら模様だったり、斬新な発想で形態をかえてみた芸術家思考の虫の作品は自然界では認められず、失格者の烙印を押されて、たちまち敵にたべられてダメになったのであろうか。

自然界の生物の形態はじつに千差万別でまったく自由な創作芸術集団のように見えるが、形態には存在する意義があり、まったく無目的に形態が存在しているわけではないことがわかる。意外といろいろな制限があって彼ら芸術家もその制約の中で試行錯誤をしているのかもしれぬ。

また自分たちを狙って食べにくる敵の習性を知って、この裏をかくという戦略は虫たちのどこからあらわれてくるのか不思議である。彼ら昆虫たちに特殊な能力があるとは思えない。だいたい昆虫に思考する脳神経細胞があるのかなあ。

結果的には外敵に襲われにくいようであると、人間どもが理屈をこじつけているが、彼らはそんな説明とは関係なく形態を維持していくのだろうか。

擬態生物の形態の意味づけをするのならば、キリンの首が長いのとか像の鼻が長いのを生活の必要があって、長い時間の間にあんなに変化したのだよと子供たちに怪しげな進化論の話をするのと同じレベルになってしまう。

子供はすかさず質問してくるであろう「どうしてお馬は首が長くならないの」

「どうしてカバさんのお鼻は長くならないの」と。

我々は見慣れない形態の生物に対しては、なぜそのような形態であるかについて何等かもっともらしい説明をして、それに納得して落ち着いている。

一方、常々見慣れているものの形態は、もともとそんなものであると思っているからあまり形態に興味がわかないし問題視されない。しかし見慣れているものの形態を改めて見直すと、いろいろ疑問がわいてくる。

どうして昆虫には足が6本あるのに、動物には4本しかないのか。(ムカデやイカもタコも同様に)。なぜ人間には手が4本ないのか。なぜ何億年も前の恐竜に立ち向かうためにトリケラトプスはあんな巨大な3本角を持っているのか。などなど。

そしてこれらの問いに答えるのは困難であり、また簡単である。簡単な答えはこれである「初めから神様がこのように作ったのだ。形態に意味はない。初めからそうなんだから。」と。

そうすると初めの「枯葉虫や木の葉の擬態」の説明はどうだったのか。初めからそのような形であり、捕食されない形態とか保護色などという説明はどうもあやしいものになってくる。

複雑なものでも単純なものでも、生物の形態は本当に不思議なもので疑問が尽きない。

平成26年5月6日