忙しい人たち

-K教授退官記念誌原稿-

平成17年3月

ローマの哲人“セネカ”の書には人生に対する教訓が厳しい言葉で述べられている。この中で特に気に入っている言葉が「人生の短さについて」と言う書に述べられている「忙しい人たち」というくだりである。

曰く、「忙しい人々はその仕事がたとえどんなに重要な事柄であったとしても、その中身の大半をいわゆる雑事に費やしているものである。揉め事の仲裁に入ったり、長々続く会議であったり、他人のいろいろな要求を聞いてやることであったり、その他もろもろの雑事に追い回されている。そして当時の最高の地位についた為政者でも日々に起きるこの雑事のために何時もはやくこの地位を降りたいものだと考えている」という。

こういう言葉を凡人が述べれば、それは出世できなかったもののやっかみだといわれるのがオチであるが、セネカはローマ皇帝ネロの教育係りで皇帝の側近という当時の民間人では最高の地位にある者が言う言葉であるからには誰も反論は出来ない。

「その結果、自分のための時間すなわち人生を送るために最も大切な哲学をする時間を失ってしまっているのである。忙しい人々は所詮このようなことで時間を費やしているが、ふと死が目前に迫ったと知るやなんと死を恐れ忌み嫌うものか。そして人生は短すぎる、もっと時間をくれ、もう少しこの世に生き長らえたいと神に祈るのである。しかし神がこれらの人たちに千年の命を与えたとしてもやはり無為に時間を過ごしその最後には同じ懇願をするに違いない。」

そしてセネカはこれらの人々がたとえ長く生きてもその人は単に長く存在したと言うに過ぎないと厳しく断言するのである。

組織のトップにのぼりつめ、社会的な地位が上になるほど日々の生活が忙しくなるのが世の常である。かつて日本経済が上昇期にあったころは24時間はたらく会社員が労働戦士としてあがめられたこともあった。

高い地位を得、多忙になった人たちは1日24時間のうち睡眠時間を除いてはすべての時間をこの地位がもたらす業務にささげることになる。そして多忙さの中でああ時間がない、人生は短いと嘆くのである。

この忙しい仕事が終わったら人生についてゆっくり考えよう、定年退職してからあれをやろう、などと未来の良い生活を夢見て今の希望を先送りにする様な者は「逃げ水」を追うが如く結局何時がきても自分の満足できる人生を現実に手にすることが出来ない。そのような人は良い人生を生きているとは言わないというのである。

その多忙の中身は何かといえば、自分の自慢話と飲み食いの話と金儲けの話と女の話に日々うつつを抜かしているのだという。セネカの住んでいた2千年昔のローマ時代からからこのように指摘されるのである。文明の進んだ現代にもテレビの画面に毎日のように流されているこれらの番組を見るとき、我々の生活は2千年の時間に思想面にどれだけ進歩あとがあると言えるであろうか。何世代も何世代も同一平面上のみで同じことを繰り返しているのである。

このセネカのくだりを読むと我々にはまさに耳の痛くなる話である。

閑職にあるものこそ他人に時間を取られることなく、十分に自分自身のための時間を持つことができ、無駄な空想を追いかけるでなく、現実の時間の中で生活をし、「今」を生きていくことができる。このようにして生きるものには十分に長い人生が味わえることができるのであるという。

さて前置きばかり長くなったが要職を退官されたK君はもう充分に「忙しい人生」を過ごしてきた。多忙であったといえどもこの間はけっして無駄な人生であったとは言わない。医学を究明し、後進の指導をし、多くの組織を立て直し発展させてきた。その功績は誰もが高く評価する。だからもうここらで人生の時間を自分自身のために使っても誰も文句は言わない。

さればとて老人じみた趣味をいまさら探すことはない。あるいは若者に媚びた奇妙な健康志向のまねごとなどもする必要はない。あるいは急にグルメ嗜好に愚かにも時間をつぶすものでもない。近頃の流行り言葉では「スローライフ」等と呼ばれている。

また古典を紐解けば、中国の漢詩には第一線を退いた有力者が老後をどのように過ごすがよいか多く語られている。「帰去来の詩」は特に私の心をうつ良い言葉がある。「・・・富貴を求めず、過去の栄光に連綿とせず、田舎生活で時の過ぎゆくままを天明を楽しもう・・・」

思索と読書に明け暮れるというのはなんとすばらしい生き様ではないか。

これで行こう。老後はこれから始まるのだ。新しい自分のための時間を満喫しよう。まだまだ人生は長い。

参考文献
「人生の短さについて」  セネカ著 岩波文庫
「ローマの哲人セネカの言葉」  中野孝次著 岩波書店
「帰去来の辞」  東晋 陶 淵明