健康と病気について

健康は誰もが求めるものである。健康になるために人は節制をし、薬を飲み、運動をする。健康を得るということはすなわち幸福を得るということになり、これは正しいものであるという一連の思想が成り立っている。そして世の中では健康優良児が表彰されたり、長寿の高齢者が大変もてはやされたりする。

これとは逆に、病気とは何か不摂生の結果として起きるものであり、不幸のもとになり、これは悪いものであると決めつけられている。

病気になることは不注意であったか、あるいは節度を守らなかったために起きたもののように言われることが多い。酒を飲み過ぎて二日酔いになったとか、スキーで転倒して捻挫したというような時には確かにこの範疇にはいるものであろう。

健康という正しいルールブックがあり、間違ってこれに違反したことが病気になるものであるという病因論が一般には受け入れられているようである。曰く、あなたは食べ過ぎてしまった、だから糖尿病になった。あなたは脂肪を取り過ぎた、だから動脈硬化症になった。あなたはスポーツをしない、だから骨粗しょう症になった。あなたは何々をしなかった、だからこの病気になった、というものである。

実験的には悪条件を作ることによって病気に近い状態を作ることができるが、だからといって病気はすべて健康な生活のルール違反をしたために起きたものでもなければ、何か悪いことをしたための結果である訳でもない。多くの病気はいつ発病したのか、あるいは病因は何であるか分からないものである。

健康社会とか健康家庭とかいう言葉が蔓延し、人は健康でなければならないという社会常識があるが、これは健康な人の立場で考える基準であろう。健康がすべて正しいものであれば、体の調子が悪くてもこれを口には出さず、無理をして職場に出かけ、自分が病気になったことを隠し、健康を装うことになる。これは精神的にも身体的にも‘しんどい’ことである。

万一入院をすることになっても、これは健康を取り戻すためのちょっとの間のエネルギー充電のための手段であると思っている人もいる。体は病院にあっても心はいつも職場に向いていて、一度ベンチには入ったがすぐに出場する運動選手のような気持ちであろう。そして、早く治らなければ。と焦り、病気が治らないと病院を代わってみたりする。

病気になったことが自分の健康管理に落ち度があったのではないかと反省したり、卑下したるすることは必要ない。

‘生、老、病、死’は仏教の教えの始まる3千年もまえから人間の根本的な苦態として説かれているものである。人はこの苦態から逃れることのみを目的にして何千年もの間あれこれと薬を求め、修行苦行を積み、金をかけ、研究を進めてきた。

しかし病気を含めてこれらの苦態は人が生きている限り逃れることのできない実態であることもわかっている。

すなわち苦態の反対側にある健康というものは求めても求めても向こうへ逃げていく蜃気楼か逃げ水のようなものである。

健康のみが善であり、病気が悪であるという2元論になると、医学や医療は常に善行を期待されるが最終的には敗北して悪の結果に終わってしまう。

いたずらに健康を得ることにのみとらわれず、むしろいかに病気のなかで生きていくかを考えなくてはならない。