医師の声、患者の耳

―若手医師に対する話し方の指導教材 インフォームドコンセントの現実―

近頃、街の中で耳にする若者の言葉は我々、普通の年寄りたちにはまったくもって理解しがたいものがある。

『うざい』『まぶい』『やべー』『まいうー』

しかし日本語でしゃべっているのだからその言葉を鸚鵡返しに言うくらいはできる。でもまねごとを言っても意味が理解できない。何を言っているのか解らないから彼らが何を考えているのかもわからない。

そこで年寄りたちは“だいたい近頃の若い者はモラルに欠けているし、何を考えているのかもわからん。”“自分たちだけで通用する言葉をどこでも通ると思っていやがる。”“これは教育が悪いんだ。親が悪いんだ。社会が悪いんだ。” とぼやく。

中には年寄りが若者たちに迎合しようとして、場違いに、使い慣れない言葉を無理に言ってみたら『おやじギャグ』だの『さぶっ』などと言われてますます彼らの世界からは遠ざかってしまう。

言葉は自分たちの意思を伝え合う手段であり、同じ仲間では決まった用語を用いてもすぐに理解されるが、仲間でないものには一向に伝わらない。意志が伝わらないものだから文化の違いまで生じてくる。道端に座り込んでパンをかじったり、電車の中で化粧をしたり、ずれ落ちそうなズボンをはいたり、ゆるゆるのソックスをはいたり。しかも彼らの発している言語が理解できない。彼らは言語も道徳も価値基準もまったく異なる異星人種のようである。

言葉が通じないと相手を信頼できないため、とにかく相手を侮蔑し非難攻撃の対象となる。歴史的に見れば江戸時代の外国人は生血を吸うような「赤毛唐」であったり、ごく最近でも「鬼畜米英」などと叫んで敵を非難したものだ。言語を理解できない相手には疑いを持ち、敵対することになる。

病院を訪れる患者は医師からいろいろと説明をうけるが、日本語であるから言っていることは解るが内容は良くわからないことが多い。中にはカタカナ言葉を入れて熱心に、早口でしゃべる医師がいるが、そうなるともうほとんど患者には通じない。

病室での一場面を想像してみよう。

医師は患者に診断の結果を以下のように説明しています。

「冠動脈の狭窄病変が示唆され、心筋梗塞に至る可能性の傾向が大です。治療戦略としては心カテーテルによる介入治療が必要と考えられます。この治療の侵襲度合いを考慮しますと、危険性発生の確率は10万分の1と考えられます。」

そばに立って聞いていた研修医も看護師もうんうんとうなずき、先生の名調子に感心する。患者は困惑しながらも「はあ、はあ」と生半可な合槌をいれる。

でも患者は医師の発する説明の音声をどのように自分の聴覚で音波として受け止めたであろうか。医師の発した音声はこうである

「カンドウミャクノキョウサクビョウヘンガシササレシンキンコウソクニイタルカノウセイノケイコウガダイデスチリョウセンリャクトシテワシンカテーテルニヨルカイニュウチリョウガヒツヨウトカンガエラレマスチリョウノシンシュウドアイオコウリョシマストキケンセイハッセイノカクリツワジュウマンブンノイチトカンガエラレマス」

これを患者の頭の中では自分の知っている日常用語に置き換えて文章を理解することになる。ちょうどできの悪い(あるいは常識のある)コンピュータで漢字変換をしたようなものであり、医者の説明を日本語で聞いていた患者は以下のように頭の中で理解する。

「感動の今日咲く病辺が視察され近親高速の化膿性の蛍光灯がないです。治療銭湯としては新家庭による買い入治療が必要と考えられます。治療の信州ドアを工事しますと危険性発生は確実に10万人と考えられます。」

これを聞いて「解りましたか?」と医師に聞かれたら、患者はふと我にかえり、専門の医師に説明して貰ったのにこれが分かるかと言われても、解らんのは自分の学力不足と理解力の不足によるものだから余計な質問は止めておこうということになる。

そこで患者は「、、はあ、、」と心細く言うほかはない。

患者は部屋の外に出るとやっと緊張した顔をやわらげて看護師には「色々とセンセから話を聞かせて貰いました。どうも。」と挨拶をする。

確かに話を聞いたことは事実であるがまったく理解していないから、「良くわかりました」とは言わない。

一方、医師は「これだけ説明したから十分だ。それなのに患者は全く反応がない」、といって嘆く。

「解ったと言うとって後で何か事が起きたらすぐにああだ、こうだと騒ぎ出す。近頃の患者はもう、、、、。」と言う恨みの台詞が出る。

これは決して特別な場合ではない。病院内で通常行われている医師の説明というものは患者にとってはほとんど理解されていないと思うべきである。

用語が理解されないと医師の発する話し声は意味のない単なる音波として患者の耳に達しているだけになっているのである。

立場を変えてみよう。我われ“頭の良い”医者であってもある日突然にスペースシャトルの乗組員の訓練に引っ張れ出されたとする。そして講義が始まりマイナスG環境で緊急脱出操作はどうだの、無重力における宇宙線の反射被爆量はどうだの、原子物理の応用の講義などを専門用語や数学理論を交えながら聴かされたらどうであろうか。

そして突然「Do you  understand?」と来たらどうする?

はにかみながら「…..y,y,yees.,,,」とつい言ってしまうではないか。

一般人の生活会話で非日常的な医学用語に対する理解度はこれに近いものであろう。

さればどうすれば理解が得られるか。

それは互いの共通言語を用いてしゃべるよりほかはない。しかも小学校6年生にも解るようにしゃべることである。

共通言語というものは日常会話言語である。英語やその略語は用いるべきでない。

ERCPやPTCAなどをいくら日本語に直訳しても決して日常語ではない。だから直訳日本語をしゃべっていても相手には通じないのである。

昼休みの時間にテレビで「みのもんた」の番組がある。これは健康管理に余念がない茶の間のおばさま達には絶大な人気がある。

なぜか。それは実に平易は言葉で医学用語を解説し、具体例をあげて、繰り返し説明をしているからである。 彼の説明にはテレビの前のおばさんは首を振って大きくうなずき共感を与えている。視聴者は興味をもって十分に納得をし、テレビを見た後すぐに隣の家の奥様に講釈を垂れることになる。

「何とか野菜は血液をさらさらにするのよ。」「コレステロールを下げるのにはこうするんだって。」

話し方によって聞く人の影響力にはそれほど大きく作用するのである。病院における医師の説明もかくあるべきである。良い手本である。これにはまさにエビデンスである。

“噛んで砕いて含ませるような説明など忙しいのにできるか!”とは思わないでほしい。それをしないと説明に要した時間は結局徒労に終わってしまうのである。

患者に話をわかってもらう秘訣はもっと平易な言葉で話す、もっと普通の用語で話す、もっとゆっくりと話す。簡単なことだ。しかし最も易しい用法で話す事が医師には最も困難なことであるとは何と皮肉なことであろうか。

「みのもんた」の話法を見習おう。そうすれば患者から「あのセンセはほんまに優しい。」「あのセンセは良いお医者さんだ」と高い評価のうわさ話が待合室でいっぺんに広がること間違いない。

会話が通じ合えば話題を共有できる。そうすれば質問も出る。また、答えを知って解決できる。納得が得られる。病気に対して共感できる。そしてお互いに信頼関係が生まれる。

医療者と患者の間にしっかりとした信頼があれば、ちょっとくらいの医療ヘマをしてもすぐに医事紛争にまで発展することがない。

メデタシ、メデタシとなるのである。