腰痛症雑感

最近はいわゆる歳のせいか精神的に落ち着きがない。

どうも初老期の心と体の変化のアンバランスによる鬱症状のようである。 東洋医学の専門医に相談をした結果“灸治療”をすることになった。 「へえ、精神的な治療なのに灸治療をするのか」と幾分不信の念を抱きながら、しかし興味もあったので背中に数箇所の灸をすることになった。

約一週間して精神的には何の進展もみられなかったが突然に腰痛が出てきた。 「これは精神的なバランスの崩れが身体に顕著に現れた現象です」と先生はいう。自分としてはこの前日に出張で小さなプロペラ飛行機に乗って、長時間身をかがめていたのが原因ではないかと思っている。

原因はともかく久しぶりに経験する腰痛である。前屈姿勢がとれないため日常生活は、はなはだ不便である。長い時間椅子に座っていると腰痛がひどくなり思わず立ち上がる。

しかし立ち上がろうとすればぎくっと不快な痛みがくる。まさに身の置き所がない様である。

腰をかばうため万事行動も緩慢になり、いかにも老け込んだ爺さんのような歩き方である。

こんなことで気分的にもイライラする。他の人が階段をさっさと上がっていくのを見るとまことにうらやましい。テレビでアクロバットよろしく飛び跳ねる体操の番組をみるととても人間業とは思えない。彼らの腰には知覚神経が走っていないのではないかと考える。 そんなことでまた東洋医学の先生の所に行き「まだ腰が痛い」と訴えることになる。

「それでは別の場所に灸をしましょう」となって再びかちかち山の狸のごとく背中にもうもうと煙をたてた。しかし霧が晴れるようにはすっきりしない。

市中には腰痛治療法が数多くあり、周辺の“雑音”達は、やれ温泉が良いとか、やれ腹筋を鍛えるべきとか、やれストレッチ運動がよいとか、はたまた塗り薬だ、シップだ、マグネットだなど思いつくものをすべて上げる。治療法がいっぱいあるということはそれだけ特効薬がないという証拠でもある。 しかし、こう腰痛が続けばなにか他の治療でもないものかと考え出す。いや、治療のはしごはいけない。

数ある腰痛治療法のうちでとにかくこれ一本でやってみようと東洋医学にかけているのである。 “おぼれるものは藁をもつかむ”のたとえがあるが、先生には失礼ながらこの度の灸療法もいまや自分の気持ちでは“藁”のようなものである。いや、それよりはもう少し浮力があるようである。 とにかくこの腰痛さえおさまればどんなに楽だろうと思う。ちょうど受験生がいやな試験が終わったらどんなに幸せな春がやって来るだろうと夢想するようなものだ。

でも一向に我が腰には春が来ない。この症状が何時まで続くのか不安である。「まあ三週間はかかるでしょうね」と先生はいう。そうか、いままで1週間過ぎたから後2週間か、あるいは3週間というのは今日からかぞえるのだろうか、などと本気で治癒までの日数の計算をするのである。患者というのはいかに医師の一言をまじめに、期待を持って聞いているかのよい例である。“すぐには治らないよ”という意味で医師が治療を要するある数字を挙げると、「その時が来れば治るんですね」と患者は念を押すのである。

ことを大げさに言えば癌患者に対しての予後を説明する時か。医師が一般論や概数を上げて説明をしても、聞いている患者はその中の最大の良い数値を自分に当てはめて計算するのである。そこで医師が「いや、これは一般論ですから、あなたには当てはまらないかもしれません」などと余計なことを付け加えると、期待を抱いた患者は再び奈落に落ちることになる。 誰も1寸先の自分の運命はわからない。だから治療の予後などは本当はわからないものであるが患者はその点を特に知りたがる。自分が経験したことのない病気には特に不安である。

医師は病気の経過を医学統計として知っている。だから一般論としてその予後を述べることはできる。「あなたの体は3週間後にこうなりますよ」などと言うことは怪しげな占い師の台詞であるが、聞いている患者としては自分の3週間後の運命を言い当ててくれるありがたいお告げとなる。

「あなたの買った馬券はきっと3分後には大穴のあたりです」といくら経験の多い予想屋が言っても誰が信じるであろうか。予想屋だって最近はコンピュータを駆使した統計学で傾向をはじき出しているのであるが、3分先のことは誰もわからないと知っているから、“科学的”な統計学であっても人は信じないのだ。

しかし、病気になると「先生、この先はどうなるんでしょうか」と3週間も先のことを聞きたくなるのが患者の心理である。確定的なことでなくてもよい。希望的な観測であっても医師から「きっとその時までには治ります」といってくれる言葉を待っているのである。この患者の淡い期待を冷たい医学用語と正義感で壊してはならない。

灸治療を受けながらそのようなことを考えていたが、専ら最近は腰痛のことばかり頭に浮かんできて本来の欝気分の方はどうなったのかなあ。そういえばいつの間にか忘れていた。今はそれどころじゃあないとにかく腰痛だ、これが治らないことにはどうしようもない。

以前には東洋医学は「北風と太陽」的な治療だと考えていたが、どうも戦法が違う。ある地点を攻略するのに別の地点で大事件を起こしておいて守備隊がそっちに全力を注いでいるうちに本丸がやられてしまうという「陽動作戦」をとっているのか。

だいたい欝症状などという不定愁訴は3週間もほうっておけばなんとかなるものである。その間なにか代替の症状を与えておけばよい。特に具体的な場所に具体的な症状が現れ、意識が集中するようなものであれば尚良い。腰痛症はまさに適した症状である。 この陽動作戦にあえて翻弄されておこう。

老子の説く道(Tao)には「無為則莫為」という言葉がある。“無為にして為さざるは無し”と読むらしい。こさかしい知恵をつけてじたばたしても始まらない、何にもしないほうが良いという意である。そうだ、何もせずに灸の煙のなかで静かにまどろんでみよう。眼を閉じてしばらく朦朧とした気分でいたが、「はい、今日はここまでです。」という言葉で眼が覚めた。

うっ!まだ腰が痛む。