“手洗い”について

外科医が「手洗い」をするという言葉を使う時は、手術の前にトイレに行って体の状態を正しておくという意味ではない。手洗いとは文字のごとく手を洗うことである。丁寧語の「お」を付けないところが一般用語との区別であろうか。

さて、外科医は手術を始めるにあたって手を洗うのであるが、これはちょっと水をかけて洗うと言う簡単なものではない。専用のブラシを手に持って消毒石鹸をつけて滅菌水で手をごしごしと磨くのである。手といっても肘の上まで洗うことが義務付けられ、手の指は1本1本を6面体として洗えと教えられる。手洗い場の前には鏡があって、自分で見ている反対側の部分がうまく洗えているかをチェックするようになっている。裏も表も一渡り洗い終わると2,3分かかるのであるが、再び新しいブラシにかえてもう一度初めからやり直す。どんなに手抜きをしても5,6分の時間をかけて手を洗うのである。皮膚の弱い外科医は消毒薬とブラシの刺激によって皮膚炎を起してしまう者もある。このようにして手術に入る前には外科医自身の手は厳重な消毒が為されるのである。

最近では超音波で1,2分で終わるとされている消毒器械も取り入れられたことがあるが、効果が疑わしいことなどであまり人気がなく使われないままになっている。万事早いことを好む外科医であるのに手洗いだけは昔のままでみんな根気良くゴシゴシと洗っている。

手を洗うことには消毒のほかにもうひとつの効用がある。それは手術に向かう医師が少なくとも数分間黙々と手を洗っているうちに今日の自分の体調を思い浮かべる。今日の手術はどれくらいの時間がかかるか、食事はとったか、トイレに行ったか、今日の患者の手術はどのような手順で行くか。手術にあたって家族にはどのような話をしたか。などを数分の手洗いのうちに頭の中で思い巡らすのである。しかも目の前の鏡で自分自身を見つめながら、自分の今日の精神状態、自分の顔色はよいか、眼はしっかりと開いているかなど自己点検をする。これは手術直前のはやる心と一抹の不安心を落ち着かせるのに必要な大切な時間である。

どんな名医であっても、どんなに忙しい外科医であっても何も考えずに手術前の手洗いをしている者はいない。みんなこの手洗いの数分間の時間を大切にするのである。

これからなにか大きな仕事を始める時の体の中に起きる反応をコントロールするための「間」をとることは必要な行為である。体の反応としては、緊張によるカテコーラミンの放出状態にあり交感神経の働きが増加する。これにより集中力の増強と脳循環はフル稼働することになるが、過剰に反応しすぎて却って手が震えたり、汗をかいたり、精神的苛立ちが出てしまう。これを手洗いの数分間という「間」において精神を安定させ、間違った判断に陥らないようにする緊張感の修正の時間ともなるのである。

緊張を維持させながら、なおかつ精神的な安定感を得るために、数分間という長さは実に良い時間である。

大相撲で力士が立会いの前には仕切りをする。それまで土俵際で座って眼を閉じていたが、呼び出しの声にうながされてやおら立ち上がる。巨体の力士ではおそらく安静時の心拍数は1分間に50代であるかも知れない。しかし土俵で戦うためにはものすごい瞬発力とともに心拍出量も安静時の数倍になるであろう。もちろん脈拍数も2,3倍になろう。土俵に上がっていきなりこのような闘争の身体条件にはなれない。そこであのように何度も何度も同じような仕切りを繰り返しているのである。見ている客は早くしろといい加減な思いでいるかも知れないが、勝負する当人たちはこの仕切りの間に少しずつカテコラミンを上昇させ、闘争準備状態を作ってくる。これでも足りないときは自分でほっぺたを叩いたり、胸を叩いたりして、観客には単なるパーフォーマンスにしか見えない動作ではあるが彼らは大真面目で準備状態を作っているのである。

しかも塩をまき黙々と仕切りを行うさまは、過剰な緊張を如何にコントロールするかという重要な自己調整の時間を伴っているのである。相撲の仕切りは単なるシンボルとしての儀式ではない。あの力士たちが戦うための必要な準備時間である。
 
相撲の仕切りとは逆に、手術に入る前の「手洗い」は清潔を保つための必要作業と言うよりか、手術に望むための者が執り行うべき神聖な儀式とも思われるである。

面白いことには相撲の仕切りの時間も手術の手洗いの時間とほぼ同様の時間である。これより長すぎても短過ぎてもその効果としては十分ではない。