お名前を言って下さい

松山市医師会誌に掲載

-「お名前を言ってください」 医療事故の予防策について –

駅のホームに電車が入ってくる時には「危険ですから後ろにお下がりください」というアナウンスがある。

飛行機に乗ってもいつも非常時のライフベストのつけ方などのアナウンスがある。

人が多く集まる所で、危険が起こりうると思われる時は予め人々に注意を喚起させる呼びかけが行われる。危険を回避するためにみなさんご自分で注意しなさいという危険予告である。

注意勧告されているのに注意をしなくて事故になればその人の自己責任である。事故になっても責任は取りませんよという意味なのか、工事現場も、道路も、電気製品にも、子供の玩具までも「危険ですから」という注意書きは街中にあふれている。

さて病院はどうであろうか。

病院は清潔で安全で職員は患者をいつも保護してくれるものというイメージがある。

しかし現実にはどうであろうか。毎度テレビや報道のニュースになって社会問題となって医療事故がとり上げられている。

「院内感染の蔓延」とか「呼吸器がはずれたのに気がつかなかった」とか「患者の取り違え手術」とか「消毒薬を注射」だとか空恐ろしい新聞の見出しが絶えたことはない。

病院は多くの人が集まるところであり、事故発生の頻度から見るとはなはだ危険度の高い場所と言わざるを得ない。かくして病院は安全なところと言うよりか何が起きるか分からない危険な場所と言う烙印が押されてしまった。

さればこの病院にも街にあふれているような「危険ですから」のアナウンスがうるさいほどされているだろうか。もちろん病院の管理者たちは大いに頭を悩まし、いかにして事故防止と安全な医療を行うか、職員の研修をし、システムを改め、マニュアルを定めいろいろと安全対策を立てているのである。どのようにしたら感染が予防できるか、どのようにしたら注射や薬品を間違わないか、どのようにしたら患者を間違わないか、どのようにしたら早く患者の異状を発見できるか、等々。

医療関係者は事故発生は自分たちに原因があるのだから何とか自分たちがしっかりと注意をして、確認をして、自覚をして事故防止に努めようとしているのである。取り扱う相手が医薬品や、医療器械であったり、医事伝票やフィルムであったりする際にはそれを取り扱う医療関係者がしっかりと注意、確認を行わなければならないのは当然である。

飛行機も自動車も原子力エンジンも危険物を取り扱う者には国家免許が与えられ、安全を十分に確認して作業をしている。ねじ1本、部品の1つに至るまで組み立て作業に間違いがないように置き場所を定め、部品に番号をつけ、数を数え、あるいはバーコードで確認をして組み立てる。このようにして物言わぬ機械、部品などの作業対象物を技術者の注意と確認によって安全管理が進められているのである。

病院に於ける作業の対象は患者である。すなわち作業の対象はものを言わない機械部品ではなく、言葉をしゃべる人間である。事故を防止するためには医療者の注意のみでなく、この対象の患者にも事故防止の協力を依頼するべきであろう。すなわち駅や工事現場のアナウンスと同様「院内は危険ですから医療を受けるときに皆様十分に気をつけてください」という院内アナウンスで患者に協力を依頼することである。

でも病院内でこのようなアナウンスがされる訳はない。さればどうするか。病院では「患者間違いによる誤投薬」「検査間違い」「手術間違い」などの間違い事故報告が絶えないのであるから、これらを防止するため患者が医療を受けるときに、自分は医療を受ける正しい対象者であるかどうかを医療者に再認識してもらうことにする。すなわち、患者が医療を受ける際には自分自身の名前を名乗るように依頼するのである。

診察室に入るとき、注射を受けるとき、検査をするとき、診療費を支払う時いつもその都度自分の名前を名乗る様にするのである。医療事故の防止を医療者のみ任せるのではなく患者自身でも自衛をしてもらうのである。これにより患者間違いによる医療事故の発生は防止できる。すくなくとも全発生事故の1/3は改善できるのではないか。

具体的にはどうするか。

院内の放送で「患者様が診察、治療や検査を受ける時にはご自分のお名前を前もって名乗ってください。医療事故防止のためにご協力ください」と放送する。これを繰り返し定期的に放送するのである。

また注意を喚起するポスターを貼る。「治療、検査の前にはご自分の名前を姓と名で名乗ってください。事故防止のためのご協力をお願いします」という張り紙を院内に貼る。これを実行してみようではないか。
 
日本人の文化としては名前を互いに名乗り合うということはあまりしない習慣である。初対面の会社員も互いにすぐに名刺を交換するが、名前はそこに書かれているので自分では名乗らない。普段の会話のときも相手の主語は省いて話をする。病院でも交わされる会話には「どうぞお掛けください」、「どうしましたか」、「どこが痛いですか」、などで主語が用いられない。ましてや相手の名前を呼んで会話や診察をすることはめったにないことである。英語では必ず「You」を入れた文章で始まり、ミスター・誰々とかミス・何々などと何度も会話の中で相手の人名を呼ぶのであるが。

このように日本人はいつも自分で名前を告げる習慣がない。患者は「富野さん」であっても「富田さん」であってもあまり気にせずに会話は進んでしまう。もし自分でない名前を呼ばれても、相手が自分の名前を読み間違えたのだなと自分で解釈してしまう。それをわざわざ訂正するのは大人げないと思い、そのままにしてしまう。そして時には患者の取り違え事故が起きてしまうのである。

それで、実際に私の病院では患者間違い防止のために前に述べたごとく、自分の名前を名乗るように院内の放送を始めた。また各診察室や検査室の入り口に前述のような文言のポスターを貼り、注意喚起を実施しだした。これにて未だ具体的には事故発生の改善された数値は出ていないが、それでもきっと事故防止の意識改善にはなっていることであろうと思っている。

それでもまだなかなか患者は進んで自分の名前を名乗ってくれてはいない。また医療者も診察や検査の前にいちいち患者に名前を聞くのはなんだかおかしいといって協力も今ひとつである。

「患者間違い事故」というのは日本の文化に根ざした特徴的な医療事故なのだろうか。