危険予告と危険予知

-飛行機の事故から考える危機管理― 

飛行機が飛び立つと間もなくスチュワーデス(客室乗務員というらしい)が救命胴衣のつけ方とか酸素マスクの使い方などの注意説明をしてくれる。

どこの航空会社の飛行機に乗っても皆同じ事をしている。出てくる小道具の順番も使い方も説明の仕方もみんな全く同じである。

さすればこれは何か法律で定められているのかなあと思った。外国の航空会社も日本の飛行機も同じなのだからあるいは国際法にでもなっているのかもしれない。

彼女たちはいつもニコニコと笑顔で説明しているが、その内容たるや実に恐ろしいものであることにほとんどの乗客は気付かずにいる。乗客は雑誌を見たり居眠りをしたり、雑談をして彼女たちの言う説明を熱心には聞いていない。もし本気でこの説明を聞いていたなら乗客はみんなパニックになるであろう。なぜなら彼女たちの説明の中身は こう言っているのだ。

「今この飛行機は飛び上がりましたが、この飛行機が落ちた時にはこうしましょう」と言う説明をしているのだ。逃げる時の非常口はあちらでございます。とか脱出の際には靴を脱ぎましょうとか言っているが、一体どういう状態で空を飛んでいる飛行機から脱出しなければならないか、乗客は全くその状況設定を認識していないだろう。

ライフベストを着けたり緊急脱出すると言うのは飛行機の車輪が出なくなって胴体着陸する時か、ハイジャックにやられて飛行不能となった時か、あるいは燃料切れで海面に突っ込んで海に浮かぶ時だろうか。

案内書にはライフベストは座席の下にありますと書いてあるが、もし本当にこれを装着しなければならないときは、それより以前にきっとシートベルトはしっかりとしましょうというアナウンスがあるに違いない。うっかりベルトをしていないとすかさず注意される。そんな緊急事態になってどうやって椅子の下からベストを取り出せるのだろうか、自分の座席を立ち上がってその下から取り出すのだろうか、でもシートベルトをしているから立ち上がれない。それなら自分の股の間から引っ張り出すのだろうか。でも座席が狭くて手が届くだろうか心配である。彼女たちの説明は本当は緊急時の役に立つのだろうかと疑わしくなる。だってライフベストを取り出すやり方などの説明や実演はしてくれないのだ。

数年に1回くらい、飛行機が不時着して炎上し、乗客の何人かが奇跡的に助かった場面のニュース報道があるが、この映像の中でも助かった人たちがライフベストを着けているのを見たことがない。また大平洋に墜落して浮かんでいる大型飛行機の映像などのニュース報道も見たことがない。本当に脱出するのならむしろパラシュートの付け方とかヘルメットのかぶり方でも説明したほうが現実味があって良いのではないか。

普通の乗客はそんなことは考えない。楽しい空の旅が始まったばかりだ。心高ぶる瞬間である。そんなときに墜落の危険性について本気では考えないし、可能性もないと思っている。戦争のない平和な日本で有事の話をしても誰も本気で備えをしないようなものか。あるいは地震だ、災害だという避難訓練ももうひとつ現実味が現れない。危機に対する予告や訓練はよく行われるのだがそれを受け取る一般の市民には危機に対する自らの予知能力に欠けるところが多いのだ。あまりに現状と異なるような危機状態の予告をされても、人はそれを想像できないものだ。現実のものとは考えられず、過小評価し、危機の予告は無視されてしまうのだ。そして危機が起きてから大騒ぎをする破目になる。

結局いつも飛行機内でやっているあのスチュワーデスの説明は何の役になっているのだろう。あれはライフベストや酸素マスクや避難誘導口などの小道具を用いて、「乗客の皆様あなたが乗っているこの飛行機も絶対に安全ではないですよ、ひょっとしたら墜落するかもしれないのですよ、それなりに覚悟しておきなさいよ」という警告を直接表現ではなく別の台詞を用いて象徴的に演じているアナウンス劇なのであろうか。

乗客はこの危険発生の予告劇の真意、飛行機の危険性についてはまったく関知しない。この安全な飛行機が落ちるなんて考えたこともないといって窓の外の美しい雲海の景色を眺めているのである。

ー病院内の医療事故の予告と対策ー

駅のホームに電車が入ってくるときには「危険ですから後ろにお下がりください」というアナウンスがある。飛行機に乗ってもいつも非常時のライフベストのつけ方などのアナウンスがある。

人が多く集まる所で、危険が起こりうると思われる時は予め人々に注意を喚起させる呼びかけがおこなわれる。危険を回避するためにみなさんご自分で注意しなさいという危険予告である。

注意勧告されているのに注意をしなくて事故になればその人の自己責任である。事故になっても責任は取りませんよという意味なのか工事現場も、道路も、電気製品の裏側も、子供の玩具までも「危険ですから」という注意書きは街中にあふれている。

さて病院はどうであろうか。病院では医療事故が多発している。毎度テレビのニュースになって社会問題となっている。病院は多くの人が集まるところであり、事故発生の頻度から見るとはなはだ危険度の高い場所と言わざるを得ない。さればこの病院にも街にあふれている「危険ですから」のアナウンスがうるさいほどされているだろうか。

そんなことをすれば患者さんは「えっ!この病院はそんなに危険なの!」ということで誰も来なくなってしまうであろう。
病院は清潔で安全で職員は患者をいつも保護してくれるものというイメージがある。しかし現実にはどうであろうか。医療事故として上げられる事例は

「院内感染による感染患者の蔓延」とか「呼吸器がはずれたのに放置」とか「患者の取り違え手術」とか「消毒薬を注射」だとか空恐ろしい新聞の見出しが絶えたことはない。かくして病院は安全なところと言うよりか何が起きるか分からない危険な場所と言う烙印が押されてしまった。

もちろん病院の管理者たちは大いに頭を悩まし、いかにして事故防止と安全な医療を行うか、職員の研修をし、システムを改め、マニュアルを定めいろいろと安全対策を立てているのである。どのようにしたら感染が予防できるか、どのようにしたら注射や薬品を間違わないか、どのようにしたら患者を間違わないか、どのようにしたら早く患者の異状を発見できるか、等々。

医療関係者は事故発生は自分たちに原因があるのだから何とか自分たちがしっかりと注意をして、確認をして、自覚をして事故防止に努めようとしているのである。取り扱う相手が医薬品であったり、医療器械であったり、医事伝票やフィルムであったりする際にはそれを取り扱う医療関係者がしっかりと危険を自覚し、注意、確認をして行わなければならないのは当然である。

飛行機も自動車も原子力エンジンも危険物を取り扱う者には免許が与えられ、安全を十分に確認して作業をする。ねじ1本、部品の1つに至るまで組み立て作業に間違いがないように置き場所を定め、部品に番号をつけ、数を数え、あるいはバーコードで確認をして組み立てる。このようにして物言わぬ機械、部品を技術者の注意と確認によって扱い、作業は進められているのである。

病院に於ける医療事故のうち、患者の取り違え、薬の間違い、検査の間違いなど医療行為をおこなう対象が患者である。すなわち作業対象はものを言わない機械部品ではなく、言葉をしゃべる人間である。事故を防止するためには自分の注意のみでなく、この相手の患者にも事故防止の協力を依頼するべきであろう。

すなわち駅や工事現場のアナウンスと同様「危険ですから医療を受けるときに気をつけてください」という院内アナウンスをすることである。でも病院内でこのようなアナウンスがされる訳はない。さればどうするか。患者が医療を受けるときに自分は正しい医療が為される対象者であるかどうかを相手の医療者に認識してもらうことにする。すなわち、医療を受ける際には自分の名前を名乗るのである。

診察室に入るとき、注射を受けるとき、検査をするとき、診療費を支払うとき

いつもその都度自分の名前を名乗るのである。医療事故の防止を医療者のみ任せるのではなく患者自身でも自衛をするのである。これにより患者間違いによる医療事故の発生は防止できる。すくなくとも全発生事故の1/3は防止できるのではないか。
具体的にはどうするか。院内の放送で「患者様が診察、治療や検査を受ける時にはご自分のお名前を前もって名乗ってください。医療事故防止のためにご協力ください」と放送する。これを繰り返し定期的に放送するのである。

また注意を喚起するポスターを貼る。「治療、検査の前にはご自分の名前を姓と名で名乗ってください。事故防止のためのご協力をお願いします」という張り紙を院内に貼る。これを実行してみようではないか。
 
日本人の文化としては名前を互いに名乗り合うということはあまりしない習慣である。初対面の会社員も互いにすぐに名刺を交換するが、名前はそこに書かれているのであり自分では名乗らない。相手を呼ぶときも相手の主語は省いて会話をしてしまう。「あなた」「おたく」「そちら」などという言葉はあるが

英語で用いるような「You」というように頻繁には使用しない。先ず病院で交わされる「こんにちは」、「どうしましたか」、「どこが痛いですか」、などの会話には主語がない。ましてや相手の名前を呼んで会話することはめったにないことである。英語ではかならず「You」を入れた文章であり、ミスター・スミスとかミス・ジョーンズなどと何度も会話の中で固有名詞を呼ぶのであるが。

日本ではいつも自分で名前を告げることはない。たとえば医者が患者と話を進めているとき、その患者の名前が富野さんであっても富田さんであっても、そのまま会話は進んでしまう。もし自分でない名前を呼ばれてもそれを会話中に、しかも立場の違う人に対して(たとえば医者に対して)あえてて訂正するのは大人げないと思い、あるいは失礼な行為だとしてそのままにしてしまう。そして患者の挙句の果てが私でないカルテどおりに注射をされて、あるいは手術をされて、取り違え事故が起きてしまうのである。

病院ではもっとも多い事故のひとつが患者間違いによるものだということを患者に常々予告し、患者には事故が起きる可能性があることを予知して貰わなくてはならない。

実際に私の病院では事故防止のために前に述べたごとく、自分の名前を名乗るように院内の放送始め、各診察室の入り口にポスターを貼り、注意喚起を実施しだした。実施するに当たり当初は管理側から抵抗があったが今は続けて行なわれている。これにて未だ具体的には事故発生の改善された数値は出ていないが、それでもきっと事故防止意識の改善にはなっていることであろうと思っている。

それでもまだなかなか患者は進んで自分の名前を名乗ってくれてはいない。患者取り違え事故というのは日本文化に根ざした特徴的な医療事故なのだろうか。

真偽のほどは定かでないが、大地震の前には池の鯰が騒ぐといわれている。あるいは天変地異の前には動物たちの異常な行動がみられるという。動物たちは重大な異変、危険が迫った際には、自然界から発する予告の情報を本能的に体で予知しているのかもしれない。我々人類には残念ながら、そのような自然から発せられた異常な予告情報を予知する能力は備わっていない。しかし頭脳という優れた情報収集機能を持っている。先人の教訓や経験者、専門家が発しているさまざまな危機の予告を十分に知ることによって危機発生の予知はできる。賢い備えがあれば危機が発生してから大騒ぎをすることはない。

そんなことは初めから解っていると言っても、これがほとんど出来ていないのが凡人の現実である。