病気と心

平成5年 いよぎんIRC誌 掲載

「病は気から」という諺がある。

どのような人でも心のもちかたで病気を作ってしまうということである。

最近では病気やその症状に対しては医学書やその解説書が多く出版されており、一般の人でも病気に対する知識が増えてきている。

知識ばかりが先行すると、ちょっとした身体の変化を重大な病気の始まりではないかと心配して、ついには本当は病気でなかったのに、実態のない病気を作り上げてしまうこともある。「やまいは気から」というのはそういう人の心の不安定さを戒める諺であろう。

一方、病気によっては薬や種々の治療でもどうにもならないような場合もある。科学万能の世の中では、いわゆる医学の限界という場面である。このようなときにも「なんとか治りたい」と心に念ずる、あるいは「必ず良くなるからね」と患者さんにはげましの声をかける。そして常に生に対する期待感を抱き、希望を捨てないようにする。入院患者さんの中にはベッドの頭もとに小さなお札を置いて病気平癒祈る光景もしばしば見られるものである。

そしてこういうことがしばしば病状を好転させるきっかけとなることもある。

人の心の作用、あるいは精神の働きがどのように身体に影響を与えるかについてはまだ未知な点が多い。医学的にはホルモン分泌の作用、あるいは自律神経のバランスの変化などいろいろな説明がなされているが本質的なことはわかっていないのである。

この「心」というものは大変抽象的でつかみところのない、何の尺度でも測れないものであるが、現実には確かに存在しているものである。

人の心の作用については、華厳経の「唯心喝」という短い詩の中に「心はあらゆるものを造り出してしまう、地獄も仏もすべて心が造り出すものである」という言葉がある。あらゆるものは心によって造られる、不幸、不運も自らの尺度で決めているものであるという。

万一病気になったとしても、これを貧乏くじをひいてしまったと自分の不運をなげくことはない。病気を体験することによって、改めて「自分の身体」というものをを客観的に見ることができ、あるいは生きていることの実感を知る機会を得たと考えればむしろ喜びの発見ともなる。

我々は誰でも幸せな人生を求めて日々の生活をおくっているものである。たとえ病気にあっても、心の置きどころによって滞足が得られるなら、健康な人々が健康な体を持っていることに気付かず、日々、社会の不満の生活を送るよりも幸せといえるのではないだろうか。

「心」をそのようにコントロールしたいものである。