箸とフォークと伝統楽器

(道具の改善と文化論)

食事の際にどのような道具や作法を用いるのかということを知るのは、その国の文化を語るためのよい指標になる。

我々日本人も含めて中国文化圏では食事の際には箸を用いている。また西洋文化圏ではナイフとフォークを用いることは誰でも知っていることである。さらにインド文化圏では右手のみを使って何の道具も用いずに食事をする。左手は不浄の手であり食事のマナーもきちんとしたものである。おなじく直接手で食べる習慣のアフリカ奥地のひとは両手で食べる、特に作法はないようである。

箸やフォークで物を食べる際には食物を口の中に入れる動作のうちに道具が介在するので、明治初期、文明開化時代の日本人がはじめて西洋人のフォークで食べる食習慣を見て、あまり違和感は持たなかったであろうことは想像できる。

しかしインド文化がどんどん入ってくる現代においては、たとえばインド料理店のレストランにはいってカレーライスを注文しても、カレーの皿の中に直接指を突っ込んでご飯とカレーと混ぜてこれを指でつかんで口の中に入れるというインド風の食事作法は日本人はおいそれと真似の出来るものではない。

我々はやはりカレーを食べるにはスプーンがないとだめなのである。

彼らはチキンカレーを食べる際にも骨と肉をはずすのに、お皿の中で右手親指を使って肉を切り分け、うまい具合に片手でちぎってたべるのである。

我々日本人は、あるいは西洋人は、指というのは物をつかむという動作をするだけのものと思っている。すなわち右手1本で何かをするという際には指を内側に屈曲させる腕の筋肉の動作のみを用いて行うものと考えている。例えばキーボードを押すとか、物を掴むか寄せ集めるかの動作しか機能としては知らない。そして食材などの物を切り離すには両手による引っ張り力を利用するものと心得ている。

しかしインド圏の人々は片手の指のみで物をつかむと言う動作のみならず、分ける、離す、切る、という機能を用いることができるのである。解剖学的に言えば指を広げる動作をする尺骨神経領域の筋肉を十分に駆使して指の機能を広げているのである。

高級レストランで高級なサリーに身をまとった貴婦人も一般市民もみんなこの指の機能を駆使して自由に食べているのである。

文化の違いとは用いる骨格筋の運動機能まで違うのであることがわかる。

話は変わるが箸を用いる食事の動作は、初めてこれを経験する西洋人にとっては大変困難な作業である。すなわち2本の細い棒を右手5本の指で把持しながら別々に自由に動かすことである。しかも統一された連携のある運動でなければ箸は十分な機能をしない。箸の先がずれていては豆ははさめないし、あるていど長く持たないと魚の身をむしれない。

箸を持つ“初心者”はこうして、ああしてとスタイルを教えられるが、実際に使用してみると2本の箸は同時に動き腕の屈曲筋のみを用いて動かすから動作はきわめて制限されたものになる。右手にはフォークのみしか持たなかった西洋の食習慣では無理からぬことである。

箸の機能は食物をフォークのように突き刺すだけではない、物をより分け、挟み,つまみ、切り離し、汁の中から具をすくい上げ、あるいは液体である汁自体を2本の箸ですくい上げることも出来る。2本の細棒でこれだけのことをやってのけるのである。

フォークのみでスパゲッティは食べずつらいが箸なら自由に食べられる。1本だけお皿に残ったスパゲッティの切れ端はフォークでどう食べるのか、お皿に1つだけ残ったグリーンピースはどうやってすくい上げるのか。フォークとナイフでお皿の中をおっかけっこしてしまうではないか。 箸ならばちょいと摘まんで食べられる。

でも“初心者”の西洋人ではそうはいかない。箸は使い辛い不便な道具となる。

そして思いつくのはもっと使いやすい箸を考案したらよいのではないかということになる。日本人はただ先祖から伝統的に教わったから盲目的に箸を使用しているが、もっと発想をかえてより便利な箸をなぜ考えないのだろう。だから日本人には発想の貧困な民族といわれるのだ。などなどと思いをめぐらす。

箸をピンセット型にしたらどんな初心者でも簡単に間違いなくものがはさめる。いいじゃないか。ついでながらピンセットの先には小さなスプーンのようにしておけば良い。もう一方の先端は小さなフォークのようにしておいたらどうだ。

そうすれば箸の持つ機能はすべて備えた道具になる。こんな良いアイデアを誰もなぜ思いつかなかったのだろう。そうだ1本千円で売り出したら日本人の半分が買ったとして、えーと日本人口は約1億だからその半分に千をかけると、えーと。

しかし、日本人はもとより外国人でもこんなものを買う人は誰もいないであろう。

なぜか?

それは箸はそれで完成された道具であるからであろう。これ以上何の構造上の改良をすることもない。中国三千年の食文化のなかで箸は綿々として何億人いや何百億の人が用いてきた道具である。きっとその中には箸の使い方が不器用な者がいていろいろと工夫をしたことであろう。ピンセット型のアイデア位なら誰でも思いつき製作し使用したに違いない。でもそんな“改良箸”はどこにも存在しない。しいて変化を上げれば素材が木であるか竹であるか最近ではプラスチックであるかの差であろう。アイデアが新しければそれが良いものであるとは限らない。結局、箸としては構造は変わり様がないしその変化の必要性を誰も感じないのである。

一時的に箸の使用が困難であった“初心者”であっても、ある期間練習をすれば必ず自由に箸を使うことが出来てしまう。

すなわちピンセット型の箸は無意味なものであったのだ。

伝統文化や伝統芸能においてもこれに類似したことが言えるのではないか。

たとえば伝統芸能では初心者には作法がとんでもなく面倒で複雑に思える。

あるいはもっと簡単な方法があるのになぜ難しい方法にするのかとの疑問がわいてくる。そして初心者は回り道がいやでもっと簡単な道はないかといつもさぐるのである。伝統技術といっても技術の継承ばかりに重点がおかれ、昔から何も変えないのは改良しようという思いつきがないからではないか。新しくて、便利で合理的なものが良いものだ、だから「改良」という言葉があるのだ。もっと便利な方法を考えようと自分自身で納得してしまうものである。

古典芸能である邦楽を例に挙げると三味線の棹にギターのようなフレットがついておればもっと楽にポイントがわかるのに、あるいは、もっと大きな音が出るように洞を大きくしたら、また、西洋楽器のように弦を4本にして四味線にしたらどうだとか考える。

琴は全部おなじ長さの弦ではなく高音と低音ではハープのように弦の長さを変えればどうか、尺八は5つの孔が開いているがもっと沢山の孔を開けるとあの難しいメリとか大メリなどの技法がが簡単に出るのになぜあけないのだろうか。

尺八にフルートのようなキイをつければもっと簡単に音が出るのに。などなど初心者にはいっぱい「改良」をしたいと思いつく伝統楽器がある。

こんなことを考えるのは私だけであろうか。いやそうではあるまい。何百年の間にはあれこれといろいろ改良に努力したにちがいない。そして必要なものは必然的に残り不必要なものは淘汰されて楽器が出来上がったものであろう。

初心者には一見便利なようであっても達人には不要な「改良」は消滅していくものだ。

自転車に乗れない子供は初めは補助輪があった方が便利だと思うが上達すれば無用の長物となってしまう。伝統楽器をあれこれといじるのは自転車の補助輪のようなもので、長年使用してきて出来上がった道具にさらに小細工を加えることはまさしく文字通りの『蛇足』である。

和楽器にような伝統楽器にはもうひとつ現代に直面する問題がある。それは音量である。

西洋楽器に比べて邦楽器は一般に音が小さい。何千人も入るようなコンサートホールではマイクを使って増幅すれば音量はカバーできるが、そもそもこれらの楽器が出来た頃にはそのような大人数の前で演奏するようなものではなかった。せいぜい奥座敷で演奏するか最大でも百人も入ればいっぱいになる芝居小屋が演奏の舞台であったにちがいない。尺八の微妙なメリ音やカリ音なぞは小さな音であるが故に味が出るものであり、虚空に消え行くような音を真髄としているのだからマイクで増幅したりエコーをかけては本来の意味がなくなってしまう。

その文化圏の中で使用されている道具、(もちろん楽器も道具の一種と数えるが)、は長い長い歴史の中で発明され改善され工夫されてきたものである。

しかもその地域の気候、風土あるいはそこに住んでいる人々の習慣や心情、宗教心などが長い年月の間に煮詰まり、磨き上げられて完成されたものである。

他の文化圏にいるものがふと思いついてごちゃごちゃといじくってみてもそれは単なる思い付きに過ぎない、すぐにすたれるアイデアとなる。

古来より用いられている生活道具はそれなりに神聖にして尊敬される地位に置いておかねばならないのである。