“新しい”ということの教訓

昭和62年 国立循環器病センター10周年記念の院内機関紙

昭和52年の夏に大阪の万博公園近くに国立循環器病センターが新しくできた。私たち心臓血管外科グループはこの建物に大学から初代のチームとして派遣された。
まだ建物のあちこちは工事中である。システムも新しく、赴任した我々の心がまえも古い大学医局制度の殻からぬけだしてリフレッシュした気持ちで仕事を始めたものである。
診療を始めたばかりといえども、重症患者もそれなりにいた。新しい手術室で新しい手技の心臓手術が始まり、術後管理は当時としては最新の医療器具をふんだんに使えるという喜びもあったが、結局は看護婦と医師のマンパワーにたよって治療が進められていた。(今もあまり変わりはないようだが)

ある時、ICUで患者が死亡した。この時にも私の心には“新しい気持ち”が持続しており、アメリカ映画の一シーンにでもよくあるように、ICUの入り口の廊下で家族に対して気高く尊厳に“いろいろ手をつくしましたが、たった今お亡くなりになりました”と言った。
これが新しいムンテラの方法であり、ベッドのまわりで家族がいっぱいになってわあわあと泣き叫ぶような、あのような田舎じみた光景はこの斬新なICUには似つかわしくないと思ったのである。
ところが家族は“どうして死ぬ前に死に水をとらせてくれなかったのか”、“死に目にも会えないのは納得いかん”といって嘆き、激怒したのである。これに対しては、あれこれと説明やら言い訳をして、なんとかその場はおさまった。
新しい入れ物の中に入ると、なにもかも新しくなったと思っていたのは自分だけであり、世間さまの認識は何も変化していないことに気付かなかったのである。
その後、私は四国の病院にいる. 今までと同様に心臓手術を行っているが残念ながら患者さんが死亡する場合もある。この時はこの地域の仕来たりや、昔ながらのやり方で、大勢の家族をベッドの回りに立たせながらあれこれと時間をかけて死に行く患者を見送るようになった。そのほうがずっと家族や後に残されたものには納得のいく死別であり、あとに色々と問題を残さないことがわかった。

建物やシステムが新しくなると、まるで社会全体が新しく変わったように思えるが、中身を構成している人間はそんなに急に意識は変わるものではない。ましてやこれらのシステムとは関係ない人々にとっては”新しいこと”はかえって受け入れられない反感の対象となることもある。
自分だけの価値観を他人も同じ気分で受け入れているだろうと思うことは間違いであると気づく良い教訓であった。