患者はなぜ怒るのか?

- 医事紛争の事態が解らぬ医師の立場 -

(1)はじめに
医療紛争は最近の医療界での大きな話題であり、課題でもある。

どこの診療機関でも一つや二つの医療紛争は抱えているものであり、病院管理者はその対応と対策に頭を悩ましているのが現状であろう。

医療紛争と言えどもその中身は、待合の冷房が効き過ぎ風邪を引いたというようなごく些細なものから、死亡事故に至る重大なものがある。またこの紛争の現れ方も単なる窓口でのクレームから、最終的には最高裁法廷まで持ち越すものまで種々多彩である。

医事紛争、医療事故の関する刊行物や行政の通達は多く出されている。なぜ医療事故が発生するのか、事故統計とその分析はどうであるか、事故防止のための業務改善はどうすべきであるか、医事裁判の統計と判例はどうであるか、医療事故を蒙った患者はどのような状態にあるのか、患者はなぜ病院を告訴するのか、など多方面にわたる論文や考察がなされている。

また、これら医療事故防止に関する講習会や講演会は全国的にあるいは各病院単位で繰り返し行われており、医療現場での事故の防止と対策改善に力が注がれている。にもかかわらず最近において医療事故が減少したり、医療事故のマスコミ報道が減少したという傾向はみあたらない。くりかえし報道される内容はあいかわらず類似した事故内容である。誤診断の結果病状が悪化した、治療法の選択の誤りにより事故となった、手術や検査の手技の未熟で事故となった、注意深い観察が行き届かなかったのが事故になったなどの記事が繰り返し現れている。

さて医療事故が重大な結果となり医療訴訟にまで至った例は ○年の年間裁判判例の統計では○ 件あった。そのうちの 90%は医師を被告対象として訴訟を起こしているのである。これらの事故の内容は種々異なるが、被害者となった患者が訴訟にまでこじれてしまう初発のきっかけは、事故発生前後の医師からの十分な説明不足、患者の心証を害するような不適切な言動、責任転嫁をしようとする態度、専門用語で事態をごまかそうとするような屁理屈の説明などがあげられている。この結果「あの医者は心情的に許せない」「あの医者の言うことは信用ならん」という事態から訴訟になるのである。すなわち治療の初期段階から行われるべきであった人間関係の正常な保持がなされなかったことが訴訟のきっかけとなったのである。

そこで患者と医師の人間関係はどのようにして形成されているのか、どのようにして維持されているのか、なぜ人間関係が崩壊していくのかという観点で考察をすることにする。

(2)医師と患者の人間関係の始まり
病院で治療することは故障した自動車を自動車工場で修理することに例えられる。しかし根本的に病院と修理工場が異なるのは修理する自動車は持ち主のものであっても持ち主自体ではない。工場では自動車を真中において持ち主と修理工がどのように修理すべきか相談するが、病院では治療される「病気」を真中に置いて、これを挟んで患者と医師が話し合うのではない。

患者それ自体が「病気」であり治療の対象となるからである。この際患者は病気になった体の修理という身体的な異常を治療してもらうことを目的としながらも、同時に、その本体である自分自身をもうまく扱ってほしいという要求が当然にある。患者が医師を相手にして「どうかよろしくお願いします」という言葉の中には多くの要素をまとめてお願いをするのである。すなわち入院したらよい部屋に入れるだろうか、やさしく診てくれるだろうか、早く退院できるだろうか、治療費は高くないだろうか、医者の腕はよいだろうか、という不安な心情を抱きながら医師との人間関係を作りたいと期待するのである。

患者が病院にきた際には、まず患者は自分の病状がいかにこの病院に来るにふさわしいかという、自分を表現することから始まる。患者によっては大げさに表現したり、また今は落ち着いているが家にいるときはこんなものでなかった、というようにできるだけ重症な状態を説明する。目の前にいる医師は初対面の者である。どの程度親身に対応してくれるのか未知である。

自分の病態を医師に軽く見られたくないと思う心理が働く。さらに、私は誰それ先生から紹介されたものである、私は遠くからやってきた、私は市会議員である、私は社長である、私も同業の医療関係者である、だから他の人とは同様に扱わないで欲しい。特別な患者として慎重に取り扱ってもらいたいという要求があり、本来の「病気」の症状以上に個人の社会的な他の条件も認めてもらおうとする。

一方、医師にとっても初対面である。この患者はどのような症状で病院に来たのか、訴えていることは何か、を聞くことから始まる。医師にとっては患者の病状が最優先される話題であり、医師は問疹を進めながらこの患者の診断名は何か、検査は何を進めていくか、治療はどうするかという構想を頭の中で探っていくのである。医師にとっては目の前にいる患者の診断、治療法をまず考える。そしておそらく分以内には終了しなければならない時間にせかされながら、外で待っている他の患者の数を想像しながら、最終的には結論を出し、患者を診察室から出さなくてはならないということが頭によぎるのである。すなわち医学的な診断や処置のみが今の頭に浮かぶ最重要なことである。この際、ついでながら患者の会話の用語、表現力、態度、身なりなどを判断してどの程度の社会的位置にあるものかをも探る。

しかし多くの医師は患者を外見で判断することははなはだあやふやで画一的であることが多い。医師にとって患者はいつも病人であり、訴えるものであり、弱者であり、自分より専門知識には乏しいものである。たとえ年齢が上の患者であっても、それは自分が礼儀を払わなくてはならない人生の経験豊富な先輩というものではなく単に老化現象の生理的変化をともなったに過ぎない対象となるのである。このため誰でも一まとめで「患者」、「高齢者」として一くくりで判断して会話を進めることになる。すなわち患者の個人の有している社会的身分や、遠くから来たか、金持ちであるか、市会議員であるか、は医者にとってはほとんど興味ないもので患者評価には重大ではないのである。このように向かい合う患者と医師の二人には対話の初めから立場が異なり、求める価値観と方向が異なっているのである。このずれた価値観のままでこれから治療という行為をしながら人間関係が始まるのである。

(3)インフォームドコンセントの現状
さて初対面の会話が進み検査、治療のインフォームドコンセントの段階になる。インフォームドコンセントの重要性は医療者ならいまさら述べるまでもなく、時代の趨勢として誰もがその価値を認めているものである。しかしそこで話される説明の内容に関しては医師と患者では理解の度合いが大いに異なるのである。インフォームドコンセントにおける医師の説明はあくまでも統計的な立場で医療における危険性や合併症の発生確率をのべ、目前の患者個人の病気ではなく同種の疾患を総合して統計論としてとらえ説明をする。そこには患者自身が経験するであろう恐怖心や痛みや治療決定に於けるためらいなど心理的な葛藤への関心はまったくない。たとえ何らかの合併症が発生してもそれは発生数として統計数のnの数値で表されるものに過ぎないのである。

一方、患者は同様な統計確率の数値を示されたとしてもあくまでも他人の統計の話であり自分には直接関係ないものと期待をする。手術死亡の発生率は5%であると説明をうけると95%の発生のないほうへ自分を置く。もしその5%に入ればわが身は100%死亡する事であっても自分の体の一部の5%が死亡するものと解釈する。そんなことは現実ではあり得ない現象であるが。またインフォームドコンセントにおける多くの医学的な説明は患者にほとんど理解されていない。「解らないことがあったら聞いてください」、などといわれても何を聞いたらよいのか解らない。医師の話す医学用語、医学的な言い回し、紙に書かれた略図の意味は何であろうか。とても医師の説明のレベルにはついていけない。だから解らないのである。実際に医師は心不全の治療を患者に十分に説明するためには心臓解剖学から始めなければばらならない。また白血病の治療の説明をするためには細胞免疫学から始めなければならない。この講義を10分や20分たとえ1時間行なっても医学の知識のない人に納得できるには十分ではない。そしてわからない患者はどんなに勇気があっても「先生はこの手術でどれだけの成績を上げていますか」とか「先生はどれだけ合併症を起こしましたか」などとは聞けないものである。

結局、患者は医学的な内容を理解するよりも説明をしている医師の口調や態度、振る舞いを真近で聞いて、見て、この医者は信用できるかどうかを判断することになる。 インフォームドコンセントとは患者にとってはこのように不確かな知識と、はなはだ主観的な人物評価で結論を出していることになる。ここにあらわれる医師と患者の間の人間関係はまさしく紙切れ一枚の厚さの如く浅薄なものである。

(4)医師、患者間の人間関係の維持
かつて医療が現代のように進んでいなかった時代には患者はそうやすやすと病院には行かなかった。なかにはそのまま家庭で息を引き取った者もいた。家族の長はこの患者を病院に運ぶべきか否かを判断し、また家族の病状の予後をも推測したものである。そして「人は死すべきものである」ことを身内の死によって家族の誰もが実体験として認識していた。そのような時代には医師は現在よりももっと患者にとって遠い存在であった。それでも病気になれば医師は患者の家まで往診をし、患者の病態のみならず患者個人の生い立ちや家族構成なども熟知していた。重態になれば家族と同様に心配し、暗い気持ちになり、患者の枕もとで最後の脈を取ったものである。医療技術が完璧でなくても医師は誠意を持って一生懸命に治療をやってくれていることが患者、家族に十部分に伝わり、認識されていた。そして医師と患者、家族の間には相互信頼による人間関係が出来上がっていた。古臭い人間関係、あるいは泥臭い人間関係と揶揄されるかも知れないが、医師は尊敬され、社会的地位を保っていた。

現代においては病気になればいつでも気安くどこの病院にでも救急で運ばれる。まさしく文字通り「コンビニエンス」である。医師は患者とごく近い距離になった。入院すれば近代的な検査や治療システムがずらりと並んでいる病院で多くの医療従事者の手をわたって治療が始まる。一つ一つの医療行為にはいちいち説明と同意が求められ、万事、手際よくはかどっている。しかしこれはマニュアル通りに行なわれていることであり、誰に対してでも一様の丁寧な言葉で話かけてくる。ちょうどマグドナルドの売り子のように。

現代においてはなるべく個人的な干渉は避けようとする意識がある。このため患者に対しては病気以上の個人情報は求めない傾向にある。職業は何か、宗教は何か、政党はなにを支持するか、何故離婚したのか、どうして刺青をしているのかなどを聞くのはご法度である。そして医師は忠実に医療のみに専念して治療を始めるのである。医師にとっては患者の住所や名前は単なる識別の手段に過ぎない、むしろID 番号の方があとでのデータ整理で間違いがなくてよい。 病室での回診は治療の効果がいかに現れているかを確かめるための観察であり、患者が昨夜よく眠れたか、食事がおいしく食べられたか、薬が飲みにくいか、部屋が寒いか、隣の患者がうるさいかなどということは医師には必要ない医学データであり、患者との会話でもそんなことは話題にしない。患者との接触はせいぜい一日数分間であり、あとは各種検査の情報収集と治療効果の分析をするのみである。患者個別の識別をするには「何号室の患者」「あの心筋梗塞の症例」「昨日入った救急患者」などと病名や事象で医療者の間では判別するのであり、「○○様」というような個人名では医師は認識しないのである。医師は患者の病態を各種データを眺め、治療法について考えることが患者と深いつながりを交流している時間であると考えるのであるが、その実はなんら人間的な関係が深まっているわけではない。病状経過は詳しく記録されるがその観察たるや検査数値の評価のみでありこの間に患者がなにを感じていたのか、なにを訴えたかったのか、何を考えていたのかということは全く関心を抱かないのである。だから診療禄にも患者の主観的な訴えは全くといってよいほど記載されていないのである。

しかし、一旦患者の病態が悪化すると夜遅くまで、あるいは当直をしてまで患者を診る。熱心に、まじめに患者を診るのであるが、このときでも熱心に患者の医学データをのみ観察するのである。そして患者の病態変化との関わりは深まるのであるが患者との人間関係は一向に深まっていかない。痛みや苦しみがあってもこれは身体における病理的な反応で起きていることであるから処置する必要はない。医学的には放置するより他はない。あまり疼痛を訴える場合には鎮痛剤の注射をすることという指示を看護師にだすのみである。患者の観察においてはなんらぬかることなく必要な治療が行なわれたと自己完結するのである。

患者にとってはこの苦しい時に、一言「がんばれよ」とか「もうすぐよくなるから」という声をかけてほしいのである。気休めでもよいからあと何分でよくなるという期待を持たせてほしい。そうすればどれだけ心が休まるだろう。どれだけ希望が持てるだろう。あるいは治療にはなにの効果もなくても体の痛いと所を医師の手でさすってほしい。これでどれだけ心も体も癒されるであろう。有効な抗がん剤の点滴よりも「がんばってよくなろうね」という医療者からの愛情ある言葉が治療にはより有効に働くこともある。昔から家族の暖かな励ましがあったものだが、精神免疫学的な治療法として最近この方法の有効性は認められてきだしたのである。病める者にとっては心の癒しは重要なものである。患者は人間関係の中で医師にこれを求めているのである。

人間関係の精神的構成は「理」と「情」の二面より成っている。医療界のみならず経済界も政治、行政の組織も教育界も法曹界でも、どの分野においても人間関係を述べるにはこの二面性が表裏一体となって取りざたされる。「理」は客観的な数字で計られる要素であり、医学的な検査数値も商売の取引高の計算値も学校の成績や会社の序列も犯罪を犯した量刑までもすべて個人を評価するための重要な尺度でありこれを元に人物評価がされるという一面がある。一方「情」は心情であり、信頼、誠実、愛情、気持ちなど人間性を内包するメンタルな要素であり、数値では測られないものであるが、これも個人を評価するに重要な他の一面である。この二つの要素が表裏になりながら人間関係での人物評価は成り立っている。患者が求めるのは「情」の要素を多く占め、治療経過が万事うまくいきますようにと期待するのである。一方、医師は治療における「理」にのみ重点をおき、患者の求める「情」に関してははなはだ関心が払われない。ここに医療における患者と医師の人間関係のずれが生じ、医療が続いている間、このずれも持続することになる。

(5)人間関係の崩壊
ある定年を迎えた家庭で、夫婦の間に突然離婚話が持ち上がった。妻は長年夫に仕えてきたがもう我慢できない、夫の定年を機会に離婚を決意したのだ。妻は夫とはいつも心のすれ違いで常々不満であったが夫の勤務中は互いの生活のために妻の不満があってもずっと耐えて来た。こんな不満な生活は金輪際、辞めると言い出した。いわゆる「定年離婚」というやつである。突然に宣告された夫はもちろんびっくりする。「どうして離婚などといいだすのか?」そして夫は疑問を投げかける。妻が毎日の生活で不満だというがなにが不満だったのか。自分は浮気をして家庭を破壊したこともないし、毎月給料はちゃんと持って帰るし、休日はたまにゴルフに出かけるくらいではないか。普通に生活しているのになにが不満なのだ。第一、なぜ突然にこんなことを今になって言い出すのだ。不満があればその都度言えばよいのに。

妻は反論する。「そういうあなたの態度が不満なのです」 相手に対する思いやりもなく、妻が何を考えているか考えることもなく、いつも自分中心で物を処理し、自分の行なっていることは正しく、なにも問題はないと決め付けている。そして妻が以前からいつも不満に対する警告を出していたのに食事中は新聞を見て知らん顔をしていたし、仕事が忙しいといって夜遅く帰ってきて妻の話にまじめに何一つ耳を貸さなかったではないか。それでも家庭の経済収入を考えて夫に対する不満を我慢していたが定年ともなればこの我慢する理由もなくなった。だから今までの全てを抗議するための意思表示であると妻は述べるのである。

夫は「なぜそんな事で怒るのか?」と更に妻に問う。夫は未だに自分の行なったことにどこが問題であったか気がつかないのである。

医療紛争はこの出来事に対比できる。医師は夫の立場、患者は妻の立場である。 医療事故において患者が死亡したときには家族の怒り、不満が爆発する。それは今まで耐えていた多くの医療行為に対する不満のあらわれとなる。医師が患者の話を聞いてくれない、相談をしても生半可な答えしか帰らない、態度が横柄である、思いやりがない、などなどの不満となる。病人の治療中はこれらを我慢していたが、患者が死亡した今となっては躊躇することもない。過去にふりかえって多くの鬱積、不満が一挙に爆発する。不満を訴えられた医師は「なぜ家族はそんなに怒るのか?」とびっくりする。 インフォームドコンセントによって説明もしたし同意の署名も患者がしたではないか。自分はあんなによく患者を診ていた、病気の経過も話をした、夜も遅くまで検査をしたし、検査結果も知らせた。薬の指示も出した。その間には学会の原稿も書かなければならなかったし、他の患者も診る必要があった。一人の患者だけ見ているのではなく忙しかった。もし疑問があればその時時に質問して来ればよいのに。後になって結果論ばかり言われても当時はその治療が一番良いと思ったからそうしたまでだ。だいいち突然やってきた親戚などはあまり面識がないのに、一度話した事を何度も繰り返し説明する義務はない。聞きたければ事情を知っているほかの家族に聞けばよいのに。云々。

ここで家族の反論が始まる。ちょうど離婚妻の夫に対する不満理由と同等のものとなる。説明不足、相手の心情を思いやる心の欠如、忙しいという言い逃れ、自分がいつも正しいという押し付けがましい説教口調、最終的には死亡したのに謝罪の言葉の一つもない。云々。そして「なぜ家族が怒るのかわからないのか?」と怒る。

医事紛争においてはこのように医師と患者の両者に問題とする焦点がずれているのである。この問題のずれは死亡時に発生したものではなく患者が病院に来た時点から始まっていたのである。医事紛争にて患者、家族が「自分達の気持ちがわかってもらえなかった」「あの時の医者の態度が許せない」といって医師の行為を非難する時、医師はあんなにちゃんと診てやったのに、どうして非難されるのだろうと理解に苦しむのである。訴訟事件として裁判となっても、何故そんなことで裁判になったのか医師には解らないのである。

妻から定年離婚された夫は離婚後に自覚して自分が変わっただろうか。目からうろこが落ちて心改めたであろうか。きっと夫はいつまでも変わることなく「どうしてだろう」と繰り返しぼやいているに違いない。そして医事紛争に巻き込まれた医師も医事裁判の判決が出た後も、いまだ事態がつかめず「どうしてだろう」と繰り返すのである。

(6)職人としての医業
医師は技術職であるからどうしても「職人気質」をよしとする風潮がある。自動車修理工のおやじのスタンスで患者を診る。診断能力や治療法にすぐれた腕の立つ者は職人芸の如くふるまい、それを周囲は「名医」として賞賛する。依頼相手が貧乏人であろうが金持ちであろうが同等にちゃんと仕事をすることを信条としている。職人は往々にして融通がきかず、我流であり、自己満足に陥りやすい。自分の仕事には外からケチを付けられたくない。ということでクライアントである患者のいう種々の申し出はほとんど耳を貸さないことになる。

医師は「病気」を診ることにのみ仕事の価値を置いている。これが医師の職業としての本分と心得ているのである。医学界では自分がこれまでにどのような困難な症例をどのように治療したか、何例の治療経験をしたか、が最も医師を評価される点であり、この結果により「専門医」の称号を与えられる。そして医師仲間からも尊敬をされるのである。医師は百人の患者から慕われるよりも十人の医師に尊敬されることが本当の実力者であると思っており、それに価値を置くのである。そこには評価されるべき「医学」のみがあり、「患者学」「癒しのための治療学」はないのである。医師が、よく医学を学び、研鑽し職人として腕を磨くほど患者の心からは遠ざかってしまうというヂレンマが生じるのである。

(7)医学教育からの反省
患者の要求意識は時代とともに変わってくる。以前は敬意を払われた「お医者さん」も現代では病気をなおす技術者となった。最近ではどこの病院がよいか、どこの病院に名医がいるかという病院ランキングの記事が巷に現れるようになって、病院を外見のみで比較、評価する傾向がでてきた。すなわち旅行者がホテルを探す感覚で病院を訪れるようになった。そこには当然ながら快適な環境や、おいしい食事や、行き届いたサービスがなくてはならないのである。しかも自分だけは特別な顧客として扱ってほしいのである。患者は自分の病気が軽症であろうが重症であろうが病院に入院した限りはちゃんと治してくれるものという安直な依頼心と期待感で病院を訪れる。そして、病気が治らないのは病院や医師の腕が悪いのだと決め付け、もっとサービスの良い病院を「はしご」するようになる。

医学の世界では患者の要求される「癒しの治療」に関しては古来から色々と研究されているものの、数値としてあらわすデータを作りにくいものである。このため科学的根拠に欠けるとか、エビデンスがないなどの理由で「癒しの治療」は二流の医学、あるいはまやかしものの医学として「補完・代替医療」なる言葉で扱われてきた。しかし医療の目的は患者を癒すことであり、これにはもっと基本的には人を愛するとか人の心を思いやるという理念が根底に必要なものであることはいうまでもないことである。

残念ながら現代の医学校ではこの医療の基本となる博愛心とか道徳心を教育する時間はない。国家試験にも、実技試験にも、医学論文にも医師の倫理や患者心理を扱ったものはあがって来ない。医学教育の欠陥であろうか、いやもっと初等教育の次元でこれは論じられなければならない問題であろう。医師は医学と医療をごちゃ混ぜにして考え、病気が治りさえすればすべて終わりという感覚で治療をしている。

現在の日本の医学の中には分析的な科学が存在するのみで総合的な患者学となるべき治療学はないのである。患者が本当に要求しているもの、すなわち患者は病気になった自分の肉体とともに不安に陥った心をも癒してもらいたい、それによって総合的に医療に対して満足するのだという要求に医師が耳を傾け、認識をしない限りは患者と医師の人間関係はいつまでたっても解決できないボタンのかけ違いが残り、次元の異なる線を歩むことになる。

そして医事紛争は患者と医師の間で求める価値観の異なる異次紛争としていつまでも絶えることがない。